ジョジョ論 6 「ジョジョの奇妙な運命論」

  • 2013.04.18 Thursday
  • 15:02
 荒木飛呂彦は自身の創作のさまざまなアイディアが、意図せずシークエンスを生み出すことがあることに、みずから何度も感じ入りながら作品を描き進めているのではないだろうか。



 今回は第六部『ストーンオーシャン』のエンリコ・プッチ神父について書こうと思っていた。しかし読み返しているとどうも目に付く隠喩が多く、ずいぶん書くことの量が増えてしまった。そもそもプッチが神父であるため、作者のキリスト教理解の深さによっては、そういう隠喩や意味の操作はどこまでも複雑に織り込まれている可能性がある。正直ぼくの手には負えないというのが実感なのだが、しかし作品の隠喩をすべて見つけようとしてもしょうがない。今回はぼくが気がついたものだけを挙げていき、その上で作者がこの第六部においては以前にもまして「運命」というものに傾注して作品を仕上げている、という話をしたい。プッチの悪としての精神性の話は次回に回すことにする。

 さてまずは「プッチ」という名前である。当初は「ロベルト・プッチ」とされており、途中から「エンリコ・プッチ」に変えられている。「ロベルト」、「エンリコ」、「プッチ」はそれぞれ「ロベルトカヴァリ」、「エンリココベリ」、「エミリオ・プッチ」というファッションブランド(デザイナー)の名前が由来のようである。

 プッチというのはイタリアのフィレンツェ由来の名前で、13世紀ごろから多くの政治家を輩出した名門のプッチ家というのがあった(作中ではプッチの家はヴェネツィアの名門の家系であると、S・O15巻で語られている)。プッチ家はメディチ家やカトリック教会との関係も強かったらしく、枢機卿も何人か輩出している。 「ロベルト・プッチ」という名の枢機卿は多くの町の司教にも任命されていて、内赦院長も勤めている。実在した人物なので名前を変えたのかもしれない。また、上記のファッションデザイナー、エミリオ・プッチはこのプッチ家の子孫で、フェレンツェ出身である。

 DIOとプッチが初めて教会で出会ったとき、プッチは「フィリッポ・リッヒ(リッピ)」の伝記を読んでいる(S・O15巻)。リッピはフィレンツェ派を代表する画家で、「ボヘミアン・ラプソディ」のところで登場した「ヴィーナスの誕生」を描いたボッティチェッリの師である(S・O12巻)。プッチ家の「アントニオ・プッチ」という人物はボッティチェッリのパトロンで、息子の婚礼の祝いのために「ナスタジオ・デリ・オネスティの物語」という作品を描かせている。これはある騎士の愛を冷酷に拒絶した女が、幽霊となった騎士に未来永劫殺され続けるという話で、前回話したディアボロのそれと同様、キリスト教の神の裁きの恐ろしい一面を感じさせる。

 緑色の赤ん坊の興味を引き付けるために、プッチ神父がDIOから教わった「14の言葉」というのがあった(S・O11巻)。これに関してはネットであれこれ分析がされていて、DIOとジョースター家の因縁の歴史を表している、という説があり、それなりに説得力がある説明だった。中に「ジョット」というのが出てくるが、これは中世の宗教画家のジョット・ディ・ボンドーネのことだろう、と説明されていた。ジョットもまたフィレンツェ派の画家で、フィレンツェにある『ジョットの鐘楼』の制作に携わった人である。そしてプッチ家には上記のアントニオ・プッチとは別に、ジョットを讃える詩を書いた「アントニオ・プッチ」という詩人もいた。

 作者は『ジョジョの奇妙な冒険』のテーマの一つとして「家系・血統」というものを重視しているので、このあたりのプッチ家と周辺の歴史についてもかなり重厚に把握しているのだろう。


 次にプッチのスタンド名について。「ホワイトスネイク」などと、神父がキリスト教における誘惑者=悪魔の象徴である蛇の名前を能力に名づけていることからして、非常に不可解な何かがある。蛇=悪魔であるので、悪魔の色としての象徴は緑である。しかし蛇は脱皮をすることから復活の象徴ともされて、白は多くの場合イエスを意味する。また「緑色の赤んぼう」を手に入れることで完成するスタンド「メイド・イン・ヘブン」は緑色の騎士の半身という姿をしている(S・O16巻、S・O17巻背表紙)。プッチの目的が「天国へ行く」ことであるということとあいまって、これは明らかに聖書の「ヨハネの黙示録」の四騎士の意味をほのめかしている。ヨハネの黙示録は終末についての記述であり、キリスト教徒が信じる神の国が現れる前に起こる事柄について語られていると解釈されている。

 黙示録の第六章では七つの封印が四つまで解かれると、順番に白、赤、黒、青白の馬に乗った者が現れるということが書かれている。白い馬に乗った者は手に弓を持ち、「勝利の上にもなお勝利を得ようととして出かけた」とあり、プッチの行為態度そのものを思わせる。また、この白い騎士は反キリストであるという黙示録解釈もあるようだ。反キリストはイエスがメシアであることを信じない人のことを指す。プッチは自分が人々を天国へと連れて行こうとしたわけで、ある意味ではイエスをないがしろにしている。「白」であり「蛇」でもあるという意味でプッチには偽キリスト=反キリストという印象がある。

 二番目の赤い馬に乗った者は剣を持ち、「人々が互いに殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され」ているとある。これはまさに「サバイバー」の能力そのものだ(S・O7巻)。

 第三の黒い馬に乗った者は手に天秤を持ち、食料の制限と飢饉を意味すると言われている。ここに当てはまるのはゾンビ化した「DIOの骨」ではないかとも思った。飢えによって死ぬ者は吸血鬼によって精気を吸われた者に似ていると言えなくもない。が、少し薄い線なのでここにはこだわらないでおきたい。

 最後の青白の馬に乗った者は「死」という名であり「黄泉が従っている」とあり、他の騎士の力を統合しているとも言われる。それぞれが統合されて完成するプッチの「メイド・イン・ヘブン」を思わせる。

「青白の騎士」は古くから英訳においては「pale rider」とされて、絵画などでも青白い姿で描かれてきた。が、聖書の原語であるギリシャ語ではこの部分は「塩素(Chloros)」や「葉緑素(Chlorophyll)」を由来とする「黄緑色(淡い緑)」という単語が書かれていて、これらは英語の「green」の語源でもある。つまり英訳は「淡い緑」の「淡い」の部分のみをとって「pale」=「青白」としたことから来るようである。(ギリシャ出身のプログレッシブ・ロックバンド「Aphrodite's Child」はアルバム「666」の中でこの最後の騎士の色を英語で「green」と歌っている。また、荒木飛呂彦が熱烈なファンであるクリント・イーストウッド主演の「ペイル・ライダー」という映画があり、イーストウッドは牧師のガンマン役である。荒木の徹底した映画の分析を見る限り、こういったことまで調べていても不思議ではない。)

「緑色の赤んぼう」が生まれたとき、森の鳥たちが鳴きながら飛び立ち、川の魚がプカプカと浮くという描写がある(S・O10巻)。この効果はそれ以降描かれていない。鳥も魚も敏感な生物であるので微弱なものなのかもしれないが、「緑色の赤んぼう」にはなんらかの「死」の要素があるという表現なのは間違いないだろう。また水に入ったことで「洗礼」を経過したのだと読むこともできるかもしれない。

 緑色の赤んぼうを手に入れたプッチは、オーランドまで3マイルの地点で「DIOの息子たち」と出会う(S・O12巻)。乗っていたタクシーが料金33ドル33セントの状態で故障で止まり、助手席には読みかけの「三銃士」の本がある。そして頭上には三つの流星と輝く星があり、近くの病院に三人のDIOの息子たちがそれぞれ急患として、同時にそれぞれの救急車で運ばれてくるのである。この救急車には「スター・オブ・ライフ」という紋章が入っている。「アスクレピオスの杖」というギリシャ神話をモチーフにした医療を象徴した紋章で、これは「白い蛇」をかたどったものである。(この時点では救急車のマークがはっきり描かれていないのだが、S・O14巻で徐倫たちが同じ場所に到着した時にははっきりと小さなコマで抜いて描かれている)。
 さらに指輪、コイン、銃弾がそれぞれ息子たちからこぼれおちてプッチのところまで転がってくる。これはイエスの生誕をたずねてやってきた東方の三博士(イエスのもとに黄金、乳香、没薬という贈り物が届いたという、マタイによる福音書の記述をもとにした伝説)を思わせる。
 また、プッチ、ウェザー・リポート、徐倫、承太郎、そしてDIOの三人の息子たちを合わせれば、ジョースター家の証である左肩に星のあざがある人間がちょうど七人になり、「七つの星」になる。これも黙示録に登場する「七つの星を右手に持つもの」はしばしばイエスのこととして解釈されることを思わせる。つまりプッチが見た三つの流星がDIOの息子たちであり、輝いていた三つの星がウェザー、徐倫、承太郎というわけである。

 聖書に関連するものは他にもあるかもしれないのだが、これくらいで十分だろう。次に「もの」や「名前」におけるイメージについて。

「ホワイトスネイク」の「対象の魂をDISCにする」という能力があることで、第六部では常にこの「DISC」の存在がつきまとう。DISC(CDやDVD)の面に光を当てると虹色に反射する。さらにその角度を変えると虹色が湾曲して、いわゆるプッチ柄(上記のエミリオ・プッチが手がけた有名な柄)そっくりの模様になる。作者はこの第六部のあたりではエミリオ・プッチの影響がかなり大きいらしく、表紙のカラーイラストなどはかなりカラフルにプッチ柄にも似た色使いを駆使している。そして作中には「虹」という概念がなんども登場している。
 ウェザーの暴走状態「ヘビー・ウェザー」の能力は「虹」を見せることによって古代の記憶のようなものの「サブリミナル効果」を生み出すというものだった。またプッチの「メイド・イン・ヘブン」の時の加速が頂点に達しつつある状態においては太陽の動きすら「輝く線」のように見える、という描写がある。そして黄道が日ごとにずれることによって、その線は「虹」のような形状を描いているのである(S・O17巻)。連載においてこの描写をしたのとほぼ同じころに描かれたであろうS・O16巻の表紙では、海岸にいる承太郎と徐倫を大きくまたぐ美しい「虹」が描かれている。これはウェザーの思い出というだけでなく、その兄プッチの「メイド・イン・ヘブン」の効果の片鱗をも暗示していると言える。

 作者は第三部以降、ディオ・ブランドーの表記をわざわざDIOに変えている。ぼくは思い至らなかったのだが、これはロックバンド「Rainbow」のボーカリストの「ロニー・ジェイムス・ディオ」の意から、脱退して結成したソロバンドの「DIO」の意に変えたから、という説明がされているのをネットで見たことがある。なるほどそれなら、その「DIO」のファーストアルバムには『Rainbow In The Dark』という、「お前は闇に取り残された"虹"だ」と何度もシャウトする少々怨念(自分に対してなのか、Rainbowのリッチー・ブラックモアに対してなのかはわからないが)じみた曲があったことを思い出す。第四部でDIOによって呪われてしまった億泰たちの家の名は「"虹"村」だった。吉良吉影の攻撃で億泰が致命傷を受けて意識が戻らない、という回の引きで、「―雨が上がった―」というナレーションが入っている。「雨のあとに来るもの=虹」によって億泰の生存をほのめかしているのだ(46巻)。

 また物語の根幹部分においても、名前には重要な意味が込められている。「グリーン・ドルフィン・ストリート刑務所」から自由になった徐倫は物語終盤、アナスイの自己犠牲的な作戦とプロポーズを了承して、「それはきっとうまくいく道」と答える(S・O17巻)。道=streetである。そしてその後、最後の希望であるエンポリオをイルカ(dolphin)に託して逃がすことに成功し、エンポリオがプッチを倒した後、名前が変わった徐倫たちに再び出会う場所は「GREEN DOLPHIN STREET ・ORLAND」と書かれたバス停である(オーランドのグリーン・ドルフィン・ストリートは実在する地名)。
 また同様に終盤ではウェザー・リポートの本名が「ウェス・ブルーマリン」であることが明かされ、最後にアナスイが海へ移動しようと提案するときのセリフの「海」には「オーシャン」とわざわざルビが振ってある。これらは『ストーンオーシャン』は「石」から「海」へと進む物語だったのだ、ということの強調だろう。そしてここでも「色」の意味が隠されている。黙示録のそれと同様、「石="白"」から「海="緑"」へ、「ホワイトスネイク="白"」から「メイド・イン・ヘブン="緑"」へと物語は進んでいるのだ。


 さて、これらのさまざまな意味の配置はすべて作者が最初から用意したプロットだったのだろうか? 「ホワイトスネイク」の「人間の魂をDISCにする」という能力がそうであるように、「バーニング・ダウン・ザ・ハウス(ものの幽霊を扱う)」「ボヘミアン・ラプソディ(描かれた作品が現実になる)」「アンダー・ワールド(地面が記憶している事実を掘り起こす)」「ヘビー・ウェザー(古代の記憶を呼び覚ます)」などのスタンド能力をみても、第六部ではこれらの「もの」や「名前」に込められた意味の発現というものに執心しているように思える。

 しかしこれらがすべて、予定通りであったわけではないのではないか。作者自身が運命というものについて語っているコミックスのコメントを見てみたい。

「『運命』ですべて決定されているとなると、努力したり喜んでも仕方がないという考え方も生まれてくる。そこなんですよ、人間賛歌を描いてて悩む点は。答えはあるのか?」(63巻)。
「『運命』には偶然ではなく理由がある。『ジョジョ』の中では、この考え方を"とる"。科学的には証明できないかもしれないが、感覚が"そうだ"と言っているのだから」(S・O16巻)。
「主人公が作者の意に反して行動せざるを得ない時とか、どうしても描かざるを得ない絵というのが出てくる。これをぼくは『重力』と感じ、『重力』とは『運命』 だと感じるのだ。S・O最終巻、これをちょっと思って読んでほしい。」(S・O17巻)。

 例えばプッチの最後のスタンドは連載中は「天国への階段(STAIRWAY TO HEAVEN)」とされており、連載終了後に「メイド・イン・ヘブン」に変更されている。天国へ「行く」ためのスタンド能力であり、宇宙の特異点へ向かう流れの説明を上昇していくような絵で描いてもいるのだから、「階段」のほうが合ってるのではないかとも思える。しかしQueenの『Made In Heaven』を聴けば答えは明白だ。歌詞に

   When stormy weather comes around
   It was made in heaven

とある。これは「嵐のような『ウェザー』がやって来たとき、それは『メイド・イン・ヘブン』だった」などと意訳できてしまう。また曲の最後は

   Written in the stars ...
   Written in the stars ...
   Written in the stars...

と「星ぼしの元で書かれた」と三回繰り返して終わっている。ジョースターの星を持つものたちによって自分の運命が押し上げられるという、プッチの信念を想起させられてしまう。

 いずれの時点においてなのかはわからないが、作者はこの曲の歌詞を聴きなおして、「描かざるを得ない絵」があるように、「変えざるを得ない名前」というものを感じたのではないか。またWhitesnakeには『Judgement Day』という曲があり、その中には

   It's a gift from heaven

という歌詞もある。この曲はラブソングではあるが、ダークでゴシックなサウンドで、明らかに黙示録の審判の日をモチーフにしている。


 荒木飛呂彦は自身の創作のさまざまなアイディアが、意図せずシークエンスを生み出すことがあることに、みずから何度も感じ入りながら作品を描き進めているのではないだろうか。ぼくとしてはこれは超現実的な何かではなく、荒木の多様なものに思い巡らす才能によるものだと明言したい。人や作品やアイディアなどと出会う「運命」とは、そのあとで思う「感じ」であり、それはセンスそのものだと言える。

 さらに荒木はあくまで『ジョジョ』としての、少年漫画としての面白さを最優先させ、人物たちはそれぞれの目的のために行為し、発言しているという表現に留めている。つむがれる意味は直接読者に見せようとはせず、ウェザーの「サブリミナル効果」の能力のごとくに背後に隠しているのだ。われわれが『ジョジョ』に他にはない特別な何かを感じてしまうのはこういう創作態度・手法によるものも大きいのではないか。

 運命論はさまざまな哲学者が論じているが、近代以降の西洋合理主義哲学は偶然を運命と呼ぶことに対しては冷たい態度を取っている。荒木飛呂彦はキリスト教をよく知りながらも、その影響下にある合理主義的思想にはこだわらず、むしろギリシャや東洋の哲学にあるような、純粋な運命論を描こうとしているようにも見える。しかしこれも『ジョジョ』の根源にあるものが「ファンタジー」のテキストである、ということに立ち返る問題なのだろう。そこで次回はプッチのような「悪」に運命論を預けたその帰結について考えてみたい。

To Be Continued...
コメント
そこまで深読みできるとは思わなかった、目から鱗が落ちたね。
しかし週刊連載という多忙なスケジュールの中、そこまでアイディアや伏線を込める余裕があったのかと考えると、やはり偶然の産物だったのかもしれない。
  • 卍丸
  • 2013/04/23 1:33 PM
卍丸先輩、なんか長いのを読んでいただいてありがとうございます。

アナスイの見た目変化とか、DIOの息子なのにジョルノが来てないのとか、結構この作者テキトーなのでは?というフェイントのせいで深読みされてない向きがあるような…。
むーん。
ブルギさんは大人様じゃ
  • ドッグマスク
  • 2013/04/29 11:55 PM
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